昔から、海は好きな方ではなかった。
もともと、泳ぐのが得意というわけではないし、ただ眺めるとなると気が重くなる。
潮の満ち干きに揺れて、寄せては返す波。
茫洋と、どこまでも広がる海原。
底知れぬ深さを湛えた、滄海の虚ろな色。
これらを目にするたび。
はっきりと意識はしていなかったものの、必ず、ある種の不安を抱いていたようにも思う。
自分は何処から来たのか。
これから、自分は何処へ向かうのか。
そして、何よりも。
此処に居る自分は、何の為に存在するのか――と。
→関連SS:『傷』〔前編〕 〔後編〕
――ほら、あの子は親がいないから。
両親の愛情が足りなかったのだと、したり顔で語る大人たち。
何度、そういった台詞が陰で囁かれるのを耳にしたことだろう。
笑わない、泣きもしない。
そんな子供など、異端でしかない。
大人たちにとっても、その息子や娘たちにとっても。
異質であるから、遠ざけられる。
ただ一人の例外は、小学校の時の同級生だった。
俺とはまるで正反対に、いつも満面の笑みを浮かべているような奴で。
あいつだけが、俺を恐れなかった。
別の中学に進学してから交友は途絶えたが、今頃何をしているのだろう――
先日、鈴蘭亭に新しい顔が増えた。
伊達鷹一、高校2年生。一応は、俺の中学時代の後輩に当たる。
と言っても、当時の俺に伊達と直接顔を合わせた記憶はない。
あちらの話によると、一方的に俺の噂を聞き及んでいたらしい。
「オレ、先輩ってもっと怖い人だと思ってたっすよ」
俺の顔をまじまじと見る伊達の一言に、若干苦いものをおぼえる。
人の印象とは、一度そう認識してしまうとなかなか拭えないものだ。
伊達の言うそれは、俺が中学時代、桜と出会う以前に残してきた負の遺産に他ならない。
――“手負いの虎”
これが、当時の俺の異名だった。
それから三日間、俺の熱は一向に下がらなかった。
普段がなまじ風邪と縁遠いばかりに、数年に一度、こういった機会が訪れてしまうとなかなか治らない。
全身の関節が軋みをあげるように痛み、眠りに落ちれば悪夢が襲う。
床に伏せる俺の傍らで、桜が回復の兆しを見せていることが、唯一の救いだった。
雨の中をずぶ濡れで出歩いたのが祟ったか、俺は翌日から滅多にひかない風邪をひきこんだ。
高熱で関節が悲鳴を上げ始めていたが、それを気にしている余裕などない。
桜は、相変わらずぐったりとした様子で、静かにその身を横たえていた。
しん、と響くような雨音が、座敷の中に居てもはっきりと聴こえてくる。
ここ数日降り続いている雨は、まだ止む兆しを見せてはいない。
「やんなっちゃうなあ、雨ばっかしで」
いつもの如く、宣昭と家に転がり込んでいた紅乃が、畳の上で手足をばたつかせる。
この天気では出かけるにも億劫だが、それでも部屋に閉じ込められるのは我慢がならないようだ。
「だからといって、人の家で暴れるなよ」
「流石にやんないけどさ。でも、身体なまるー」
苦笑しつつ声をかけると、紅乃は寝転がった姿勢のまま、傍らの桜に視線を向けた。
「桜もそう思うよねー?」
紅乃と正面から顔を見合わせる形で、桜が小さく鳴いて答える。
尻尾が所在なさげに揺れているところを見ると、どうやら同じ気持ちであるらしい。
……そういえば。桜と出会ったのも、こんな雨の日だった。