『変わりゆく世界と、3月の朝』
早朝の稽古を済ませた後、寅靖は身支度を整えて仏間の襖を開けた。
着ている制服は、今までと同じ、詰襟の学生服。
しかし、これから彼が登校するのは、2年近く学んできた校舎ではない。
仏壇の前に姿勢を正して座り、線香を供えて両手を合わせる。
瞼を開くと、父母の位牌が目に映った。
「挨拶は済んだか」
「……はい」
背後からかけられた祖父の声に、位牌を眺めたまま答える。
この祖父こそ寅靖の師であり、そして今は唯一の肉親だった。
ゆっくりと腰を上げて向き直り、背筋を真っすぐに伸ばして礼をする。
「それでは、行って参ります」
「うむ、気をつけてな」
祖父とのやり取りは、いつも通り。
家を出ると、頭上には抜けるような青空が広がっていた。
3月初旬の冷たい空気の中に、微かな春の足音がある。
今までと変わらない世界。変わるはずがないと、思っていた世界。
だが、寅靖は知った。いや――知らされた。
現実だと信じて見てきたものの裏側に、積み重ねられた真実。
それを知り、“力”を手にした者は、戦わなくてはいけない、ということを。
与えられた使命と、自らの授かった“力”に対して、微かな戸惑いはある。
だが、恐れはしない。過剰に気負うこともない。
“力”を生かすか殺すか、“力”で何を為すか。全ては、自らの心次第。
その点は、何も変わりはしない。
幼い頃から磨いてきた拳に、もう一つ“力”が加わっただけのこと。
今は、そう思うことにしている。
寅靖の耳に、遠くで鳥の鳴く声が聴こえた。
彼の知る世界はまだ、こんなにも穏やかで優しい。
――渕埼寅靖、17歳。新たに覚醒した“能力者”の一人。
この日から、彼は銀誓館学園の生徒となる。