つい先日纏められた、依頼の報告書の束。
子供神輿の前で撮られた写真と、そこに並ぶ笑顔。
それら戦いの記録と、夏の思い出を眺めた後、視線を傍らの仏壇へと移す。
線香の煙が薄く昇る中、土産に持ち帰ったスイカが、皿に載せて仏前に供えてある様子が見えた。
甘く熟れたスイカが、見渡す限り一面に実る畑。
街の喧騒から離れ、ひたすら穏やかな時間が流れていく農村。
――そこが、今回の依頼の舞台だった。
2007年7月~8月の間にアップされたシリーズ記事。
寅靖と、彼が想いを寄せる翳・彩蟲(彩虹)嬢を中心に据えた物語です。
【記事一覧】(以下、時系列順)
7/14付:【音】-月齢29 新月-
7/17付:【血】-月齢2 繊月- 〔前編〕 〔中編〕 〔後編〕
7/18付:【幻】-月齢3 三日月- 〔前編〕 〔後編〕
7/22付:【花】-月齢7 上弦-
7/23付:【砂】-月齢8-
7/25付:【海】-月齢10- 〔前編〕 〔中編〕 〔後編〕
7/30付:【歌】-月齢15 満月- 〔I〕 〔II〕 〔III〕 〔IV〕
8/3付:【環】-月齢19-
8/4付:【影】-月齢20 二十日月-
8/9付:【想】-月の裏側- 〔I〕 〔II〕 ※背後打ち明け話
「――わざわざ呼び出して、何の用だ?」
この日の午後。
俺は自宅の離れに位置する道場で、“あいつ”と向かい合っていた。
床に立つ裸足の裏に、冷たい板張りの感触が伝わる。
「一つ、確かめてもらおうと思ってな。俺が、牙の無い虎かどうかを」
「やれやれ……お前も根に持つね」
軽い口調で肩を竦めつつも、そこに茶化すような気配はない。
“あいつ”の目を真っ直ぐに見据え、俺は言葉を続けた。
「腑抜けに、彩虹を任せるわけにはいかんだろう?」
鋭さを孕んだ空気が、互いの間に張り詰める。
僅かな沈黙の後、“あいつ”は上着を脱ぎ捨て、腰を落とすように構えた。
「……そうだな」
数日が過ぎ、俺は再び墓地を訪れていた。
相変わらず一帯は静かで、響く蝉の声も心なしか遠い。
“彼”の眠る墓もまた、先日とまったく変わらぬ佇まいを見せていた。
違うのは、此処にいるのが俺一人ではない、ということ。
今、俺の傍らには、彩虹がいる。
翳の瞳から零れる、一筋の涙。
その頬に思わず手を伸ばしかけた時、俺の左肩が、淡く銀色の光を放った。
同時に、翳の頬を伝った涙は銀の粒となり。
やがてそれは、小さな羽根を持った白燐蟲へと変化した。
そのまま吸い寄せられるように、蟲が俺のもとにやって来る。
淡い光が収束し、白燐蟲がもう一匹、俺の肩口から姿を現した。
銀色に輝く蟲たちが、つがいの如く寄り添い、窓の外に向けて飛んでゆく。
俺と翳は、黙ったまま、その光景を眺めていた。
「……すまない」
ようやくそう告げた時、俺の心は意外なほど落ち着いていた。
ここに来て、やっと覚悟が決まったということなのだろう。
翳が、胸に抱えていた想いを全て、俺に明かしてくれたのなら。
俺もまた、己の心に正直であらねばならない。
それを余すことなく伝えて、初めて、答えを出すことができる。
何かに安堵するように、小さく息を吐いて微笑する翳を見て。
俺は、静かに言葉を続けていった。
上品な紺のワンピースに身を包み、白い日傘を携えて。
俺の目の前に立つ姿は、紛れもなく、翳以外の何者でもない。
しかし、俺はまだ、その光景を現実のものと信じられずにいた。
「どうして……ここに?」
「お話が……」
呆然とした問いに、翳の声が遠慮がちに応える。
ようやく我に返った俺は、まず翳を家に招くことにした。
炎天下に、外で立ち話も何だし、考えようによっては好都合とも言える。
いずれ決着をつけるなら、その機会が早く訪れるに越したことはない。
夏の太陽が照りつける墓地。
正午を少し過ぎたばかりのこの時間、他に人の姿はなく、蝉の声ばかりがやけに響く。
じわりと汗が滲む気温の中、俺はとある墓を目指して歩いていた。
ひときわ立派な墓石に、『白馬家』の文字。
“白馬 律”――白馬 旋の兄であり、翳の婚約者であった人が眠る場所だ。
その墓石と向かい合うように、顔を上げて立ち。
物言わぬ“彼”の視線を通して、俺は自分を見つめ直そうとしていた。
どれだけの時間を、二人で立ち尽くしていただろう。
腰から下は海水に浸かり、上半身は潮の匂いを染み込ませて。
気温は決して低くはないはずなのに、腕の中の体温だけがどこまでも冷たい。
翳が、微かに身震いをするのがわかった。
「戻ろう……」
ようやく泣き止んだ翳の顔を眺め、控えめに声をかける。
無言で頷く様子からは、先に見せた激しさは欠片も感じられなかった。
導かれるようにして辿り着いたのは、つい先日訪れたあの海岸だった。
月明かりの下、闇に浮かび上がるように、海中に立つ白い人影が見える。
どんなに暗くとも、間違えるはずがない。
それは、純白のウェディングドレスに身を固め、沖に歩いていく翳の後姿に他ならなかった。