やけに、気分の落ち着かない夜だった。
何をしてもろくに手につかず、早めに休もうとすれば目が冴えて眠れない。
息苦しさをおぼえた俺は、外の空気を吸おうと、軽く散歩に出ることにした。
滅入るほどに、鬱々とした状態が続いていた。
身体の傷は、まだ左肩に若干の違和感が残る他は、ほぼ完治している。
しかし、心に抱えた重荷は、少しも軽くなってはいなかった。
当然と言えば、当然の話だ。
自ら動かずして、解決できる問題ではない。
そうと判ってはいても。
俺はまだ、翳と再び向き合う勇気を持てずにいる。
一人で過ごす、音の無い夜。
カーテンが風に揺れる傍らで、俺は窓から空を見上げていた。
闇に浮かぶは、上弦の月――
俺が目を覚ましたのは、あれから一夜が明けた翌日のことだった。
重い瞼の隙間から光が差し込み、やがて見慣れた自室の天井が視界に映る。
みゃあ、という鳴き声に顔を向けると、布団の傍らに座ってこちらを窺う桜の姿があった。
闇の中、俺の意識はゆっくりと沈み続けていた。
身体の感覚は希薄で、痛みも寒さも、何一つ感じない。
見えず、聴こえず、指先に触れるものすらなく。
ただ、闇だけが深さを増してゆく。
拳がゴーストを捉えた瞬間、リボルバーガントレットの回転動力炉が限界を超えて弾けた。
貫き砕いた鎧の破片に混じって、ガントレットの装甲が血の飛沫を散らしながら宙を舞う。
背中の傷が、嫌な音を立てて再び裂けていくのがわかった。
ゴーストの消滅とともに、反動で大きく後方へと吹き飛ばされる。
もはや、受身を取る余力も残ってはいない。
そのまま、俺の身体は近くに立っていた柱へと激突した。
深手を負った背中をしたたかに打ちつけ、思わず苦痛の呻きが漏れる。
柱に背を預けるようにずり落ち、軽く咳き込んだところで、翳が駆け寄る足音が聞こえた。
酷く、時間がゆっくりと流れているように感じられた。
左の肩口から袈裟懸けに裂かれた背中の激痛、そこから溢れ出す血の熱。
衝撃に痺れる意識、右手に握ったトンファーの感触。
砕けかけた膝を支え、振り返りざま身体を捻るように一撃を叩き込む。
それは、俺の血に濡れた鉤爪を振りかざす地縛霊の顔面へと吸い込まれていった。
ゴーストの断末魔が響き渡り、最後の抵抗とばかり両の鉤爪を跳ね上げる。
弾かれたトンファーは俺の腕を離れ、やがて床に鈍い音を立てた。
学園祭が終わった翌日、“ゴーストタウン”に俺たち二人を誘ったのは白馬だった。
目的は例によって楽器の素材集めらしいが、それならば、わざわざ翳まで呼ぶ必要は無いように思える。
まして、白馬本人は「二人でゆっくり来い」と言ったきり、一人で先に進んでしまっていた。
人手が要るにしては、どうにも理解に苦しむ。
「この辺りは、もう安全でしょうか……」
何体目かのゴーストを倒した後、周囲の様子を窺いつつ翳が言う。
今回はいつも狩場としている廃ホテルではなく、県内にある国際センター跡地へと足を踏み入れていた。
俺も翳も、ここを攻略した経験は少なく、その分、慎重にならねばならない。
新手が来ないことを確かめた後、さらに探索を進めようとした、その時。
部屋の奥側に一歩踏み出した翳の足元が、大きく音を立てて崩れた。
7月の午後、大樹の木陰。
照りつける太陽も、ここでは木漏れ日となり、まばらに小さな光を落とす。
涼しげな風が、俺の傍らで眠る桜の髭をそっと撫でていた。
流れる音楽は、控えめながら澄んだ歌声。
そして、そこに重なる、二本のギターの音色。
学園祭は、もう明日に迫っている。
「渕埼、使えそうな指をしているね。ギターは?」
学園祭が近付いてきたある日、俺にそう声をかけたのは御車だった。
光庭では、紅茶や菓子などを用意して木陰を憩い場とし、演出の一貫として、可能な者は楽器演奏でも、という話が出ている。
音楽に精通したメンバーが多い光庭においては自然な流れであっただろうが、まさか、そこで自分に振られるとは思わなかった。
楽器は所持してはいるものの、俺のギターの腕はお世辞にも褒められたものではない。
「折角の機会でもあるし、聴かせたまえ。天粒も喜ぶ」
さらりと、しかし有無を言わせぬ調子で。
“天粒”と名付けられたモーラットを撫でながら、御車はそう口にした。
「……了解した」
勢いで首を縦に振ってしまったのは、モーラットのつぶらな瞳の威力ゆえか。
かくて、俺は学園祭でギターを持ち出す羽目に陥ったのだった。