どれだけの時間を、二人で立ち尽くしていただろう。
腰から下は海水に浸かり、上半身は潮の匂いを染み込ませて。
気温は決して低くはないはずなのに、腕の中の体温だけがどこまでも冷たい。
翳が、微かに身震いをするのがわかった。
「戻ろう……」
ようやく泣き止んだ翳の顔を眺め、控えめに声をかける。
無言で頷く様子からは、先に見せた激しさは欠片も感じられなかった。
「一人で、歩けます……から」
弱々しく訴える声に構わず、翳を両腕で抱え上げて歩き出す。
純白のウェディングドレスは、海水を吸ってずしりと重みを増していた。
「家まで、送っていく」
有無を言わせぬ調子で、一言だけそう告げる。
翳はそれきり口を閉ざし、俺の腕に体重を預けた。
出過ぎた真似をしているとは、承知している。
ただ、今だけは、この手を離したくなかった。
一度、そうしてしまえば。
彼女は、再び海中に沈んでいこうとするだろう。
自らの死をもって、“彼”と結ばれるために。
それが、彼女の選択。それが、彼女の幸福。
――違う、と思いたかった。
ここで死して得られるものなど、何一つないのだと。
俺には、彼女を救えない。
俺には、彼女の望むものは与えられない。
俺では、彼女を傷つけるだけ。
いつか、彼女に新しい幸せが訪れるのだとしても。
その相手は、決して俺ではありえない。
これが最後。
彼女を家に送り届ければ、俺の役目も終わる。
……だから、今だけは、せめて。
腕の中から、黙ったまま指先で道案内を続けていた翳が、小さく「ここです」と告げる。
ふと視線を上げると、まだ新築の域を出ないような高層マンションが目に入った。
そっと翳を地面へと下ろし、様子を窺う。
相変わらず、その顔色は病的なまでに白かった。
「大丈夫か……?」
「……ええ、大丈夫です……」
「そうか」
意外と落ち着いた返事を聞き、少しばかり安堵する。
この調子であれば、少なくとも今夜中に同じような真似は繰り返さないだろう。
俺に出来るのは、ここまでだ。
留まることは、もう許されない。
踵を返し、そのまま数歩踏み出した後、一旦足を止める。
これだけは、詫びておかねばならなかった。
「――殴って、すまなかった……」
光の庭、木漏れ日の中で感じた安らぎ。
茶会で振舞われる紅茶の香りと、穏やかに響く歌声と。
その居心地の良さに甘え、結果、酷く傷つけた。
これが、俺の想いの行き着く先なのか。
ずっと、護りたいと願ってきたはずなのに。
どこで、俺は間違えてしまったのだろう。
――さようなら。もう、傷つけはしないから……。
振り返らず、足早にその場から去る俺の足元で。
海水が、大きな雫を幾つもアスファルトへと落としていった。