導かれるようにして辿り着いたのは、つい先日訪れたあの海岸だった。
月明かりの下、闇に浮かび上がるように、海中に立つ白い人影が見える。
どんなに暗くとも、間違えるはずがない。
それは、純白のウェディングドレスに身を固め、沖に歩いていく翳の後姿に他ならなかった。
ある意味、幻想的とすら言えるその光景に、目を奪われていたのは一瞬のこと。
我に返った直後、俺はなりふり構わず駆け出していた。
「――翳っ!!」
海中に足を踏み入れ、水の抵抗に阻まれながら、必死に翳を追う。
呼ぶ声にも振り向くことなく、翳はひたすら歩みを進めていた。
焦りを強め、どうにか距離を詰めたところに片腕を差し出す。
細い手首を掴んだ掌から伝わる、冷たく柔らかな感触。
翳が俺を振り向き、そして、表情を凍りつかせた。
「……やぁ……っ!!」
拒絶の声とともに、手にしたブーケを大きく振り上げる。
次の瞬間、それは俺の顔面へと叩きつけられた。
リボンの代わりに巻かれた銀の鎖が頬を掠め、白い花弁がはらはらと舞って視界を塞ぐ。
俺の手が離れた隙をつき、翳が大きく身を翻した。
ようやく体勢を立て直したところに、一思いに沈んでいこうと倒れこむ翳の姿が映る。
もはや、手段を選んではいられなかった。
追いすがり、両腕で掴んで強引に引き上げようとする。
なおも抵抗する翳の頬に、俺は思わず平手打ちを喰らわせていた。
「――何をするんですかっ!?」
非難の色を含んで、翳が俺を睨む。
後悔を感じている暇など、今はない。
「それは、こちらの台詞だ……!
自分が何をやっているか、わかっているのか!?」
「貴方には関係ないでしょう……っ」
「――だからと言って、見過ごせるか!」
怯むわけにはいかなかった。
今、俺がこの手に握っているのは、翳の命そのものだ。
離せば、たちまち、その火は吹き消されてしまうだろう。
他ならぬ、翳自身の手によって。
「貴方が……貴方が、私を踏み荒らすからですわ!」
翳の悲鳴が、氷の刃と化して俺の胸を貫く。
彼女が何より大切にしていた領域。
それを踏みにじったのは、俺だ。
わかっている。言われなくても、そんなことは。
「……それがどうした……!」
奥歯を強く噛み締め、翳を押さえる両腕に力を籠める。
「だったら、殴るも罵るも好きにすればいい!
こんなところで死んで、何になる!!」
「――貴方に乱されることはなくなりますわ!」
襲い来る激痛に、今は耐えることしかできない。
たとえ、翳の選択が、俺が傷つけ、追い詰めた末の結果であったとしても。
それだけは、認めるわけにいかなかった。
「逝かせて、律の所へ……!!」
「駄目だ」
罰なら、幾らでも受けよう。
目の前から消えろと言われれば、迷わずそうする。
けれど。ここで、“彼”の許にやるわけにはいかない。
「放っておいて……! 邪魔しないで!!」
「……駄目だ」
翳の腕が、再び抵抗の力を強めた。
何度も拳を振り上げようとしながら、悉く俺の腕に阻まれ。
なお、憑かれたように懇願する。
「離して……!!」
「――駄目だッ!!」
張り上げた声に、翳の動きが止まった。
銀色の瞳が揺らぎ、そこから大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「どうして……なんで……」
今にも消え入りそうな翳の声。
もはや返す言葉も尽き、俺はひたすら首を横に振る。
それは、あまりにも哀しい祈りだった。
翳から、ゆっくりと力が抜けていく。
腕の中で、慟哭が流れ出すのを聴きながら。
俺は、氷の如く冷えきった彼女の身体を、ただ抱き締めていた。
→2人ピンナップ:『消えゆく花、凍えた祈り――動かない夏の海』