上品な紺のワンピースに身を包み、白い日傘を携えて。
俺の目の前に立つ姿は、紛れもなく、翳以外の何者でもない。
しかし、俺はまだ、その光景を現実のものと信じられずにいた。
「どうして……ここに?」
「お話が……」
呆然とした問いに、翳の声が遠慮がちに応える。
ようやく我に返った俺は、まず翳を家に招くことにした。
炎天下に、外で立ち話も何だし、考えようによっては好都合とも言える。
いずれ決着をつけるなら、その機会が早く訪れるに越したことはない。
タイミングの良いことに、祖父は所用で家を空けていた。
二人でゆっくり話をするには、絶好の環境だろう。
翳を座敷に通し、台所で冷茶の準備をしながら、少しずつ心を落ち着かせる。
彼女の用件が何であれ、決して驚くまい。
全てをありのままに受け止め、答えを出そう。そう、思った。
座敷に戻り、翳に冷茶を勧め、向かいの座布団に腰を下ろす。
切り出す言葉に迷ったまま、しばし沈黙だけが流れた。
「あの……」
「その……」
同時に何かを言いかけ、双方が揃って口を噤む。
気まずい雰囲気にばつの悪い思いを抱えつつ、俺は翳に話を促した。
「……すまない、先に話してくれ」
「はい」
姿勢を正し、俺にやや遠慮がちな視線を向ける。
俄かに張り詰める空気の中で、翳はゆっくりと口を開いていった。
「先日のゴーストタウンと、海で助けていただいたこと、
ありがとうございました。……それから……」
そこで言葉を区切り、両手をついて深く頭を下げる。
「……申し訳ありませんでした」
謝ることはあれど、謝られることなど何もない。
軽い困惑をおぼえる俺をよそに、翳が続ける。
「渕埼さんの想いに気付いていながら無碍にした事、
申し訳なかったと思っています。
ですから、謝らせて下さい……」
分かってはいても、改めて聴くのは辛い一言でもあった。
必死に気を鎮め、伏せかけた視線を戻す。
「……どうか、顔を上げてくれ」
それから、大きく一呼吸を待ち。翳は、ようやく頭を上げた。
先程までとは一転して、決意の篭った瞳が、俺を見据える。
「私はもう迷いません」
思わず、膝の上で握る拳に力が入った。
恐れるな。もう目を逸らすまいと、決めたじゃないか。
しかし。身構えた俺の耳に飛び込んできたのは、まったく予想外の台詞だった。
「――私が律の思い出の中に生きるのではなくて、
律を私の思い出にして生きようと決めました」
不意を突かれて、――え、と思う。
翳は今、何と言ったのだ……?
「私を、渕埼さんの隣に置いていただけないでしょうか」
今度は、はっきりと意味を伴って聴こえた。
音のない衝撃が、ゆるゆると胸に押し寄せる。
「私から律を無くすことは出来ません。
けれど、それで良いのだと漸く思うことが出来ました……」
微かに震える声。
俯き、一つ一つ言葉を選びながら。彼女もまた、自身と戦っている。
それは、痛いほどに伝わってきた。
「もう、自分に嘘は、吐けません……」
どうして、もっと早く気付けなかったのだろう。
それが出来れば、ここまで傷つけることも、傷つくこともなかった。
改めて、己の不甲斐なさを呪う。
「――勝手な事を言っているのは承知の上です。
でも……これが今の私の正直な気持ちです」
そこまで言い終えると、翳は返答を待つように押し黙った。
この腕を伸ばすか。それとも背を向けるか。
相反する二つの想いがせめぎ合い、心はなかなか一つの形に纏まらない。
口を開きかけては止め、必死に言葉を探し、膝の上の拳を再び強く握り締める。
「……すまない」
しばし、逡巡を繰り返し。
俺は、ようやくその一言を翳に告げた。