※エイプリルフールの仮想設定における連作SSです。
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【Prelude ―序章】
遠い闇の向こうから響く、目覚まし時計のベル。
それは、夢の終わりの合図――。
目が覚めてみると、いつも通りの起床時間だった。
寝起きの良い俺にしては珍しく、随分と長くまどろんでいた感覚がある。
その間ずっと、目覚まし時計の今どき古風なベルを聞いていた気がするのだが……実際は、数分も経過していなかったらしい。
眠っている間に、夢を見ていたようだ。
長い、長い夢。
夢の大半が、そうであるように。
宵の夢もまた、目覚めた瞬間に記憶の扉を閉ざしてしまい、内容は殆ど覚えていない。
ただ、感情だけが微かに残っていた。
そこには幸福があり、絶望があり、希望があり。
喜びがあり、怒りがあり、悲しみがあった。
本当に、あれは一夜の夢に過ぎなかったのだろうか――。
――今日の仕事は、あっけなく終わった。
声もなく男が崩れ落ちた後、傍らに膝をついて死んだ事を確かめる。
極限まで練った“気”を体内に打ち込まれたのだ。並の人間では、まず即死は免れない。
今回は、ターゲットが人気のない路地裏をのこのこ歩いてくれたおかげで楽だった。
すれ違いざまに指一本触れるだけで“気”は男を内側から破壊し、しかも傷は残らない。殆どの場合、原因不明の突然死として片付けられてしまう。
俺自身の手でターゲットに直接触れなければいけない、という制約はあったが、その気になれば、大抵の人間は一睨みで追い払う事が出来る。
この身に備わった能力は、暗殺に向いたものと言っていいだろう――皮肉なことに。
張り詰めていた精神と表情を解きほぐすように、小さく息を吐き。
近くで待機していた相棒を振り返って、俺は穏やかに笑ってみせた。
「終わったよ、ユエ」
路地の角から、黒い兎の耳を生やした銀髪の少女がひょいと姿を覗かせ、腰に下げた金色の時計を揺らして駆け寄ってくる。
この少女こそ、俺の相棒である“ユエ”だった。
いや、正確には少女と呼ぶべきではないだろう。
外見がいかに少女のように見えても、彼女は銀の雨が生み出したゴースト……妖獣の一種だ。由来は人より兎に近いと思われる。
通常、ゴーストは思念を喰らうために人を害するが、例外的に、人と縁を結んで本能から解放されるものもいる。彼女(または彼)らは使役ゴーストと呼ばれ、主の傍らで戦う存在だった。
金色の瞳で俺を見上げるユエの表情には、異なる二つの感情が含まれていた。
無事に仕事が終わった安堵と、自分の出る幕が無かった軽い失望と。
言葉を持たない相棒の思いを読み取った俺は、笑ってユエの頭を撫でる。
「そんな顔をするな、お前の出番がそうそうあったら困るじゃないか」
“クロックラビット・ノワール”、それが種としてのユエの名だ。
名前の通りに金色の時計を携え、ごく限定された範囲ではあるが時を操る。
この恐るべき能力が必要とされるのは、相手が俺一人の手に余る時――ゴーストと遭遇した時か、ターゲットを始末する過程で俺と同じ“能力者”と戦う必要がある時に限られた。
つまり『ユエが動く仕事』イコール『面倒な仕事』という訳だ。
俺としては、ユエの出番が少ない仕事ほどいい。
単純に、労力として楽だから、というだけではない。
この可愛らしい相棒に、殺しという血に塗れた仕事の片棒を担がせる事に、心の底ではまだ躊躇いが残るからだ。
「さ、今のうちに帰ろう。人が来たら面倒だ」
頭を撫でられ機嫌を直した様子のユエと歩き出しながら、今回のターゲットであった男の死体を視界の隅に一瞬だけ留める。
依頼人が、如何なる理由で男の死を望んだのかは知らない。
俺にとっては報酬が全てであり、仕事の完遂に不要な詮索はしない主義だ。
大金と引き換えに他人の死を願う理由なんて、どうせロクなものじゃないだろう。
場合によっては、依頼人の完全な逆恨みであって、ターゲット本人には何の罪もない、というケースもあったはずだ。
仮に、そんな背景を知ってしまえば、指先が鈍るどころか、気に食わない依頼人こそを消したくなる可能性すらある。
勿論、信用第一の商売であるから、そんな真似は許されない。
さらに言えば、私情を挟む余地など、どこにも無かった。
目的のためには、この仕事が必要だったのだ。
裏社会の情報と大金を得る、その手段が。
俺の手は血に塗れ、日毎に腐臭を増していく。
後戻りはおろか、立ち止まる事すら出来はしない――。
〔続く〕