〔承前〕
この時。俺に、目的地を定めるような判断力は残されておらず。
ただ、ひたすらに、人の居ない場所を求めて走った。
辿り着いた先は、海。
夏であれば、海水浴で賑わうだろうこの場所も。
今は、冬の冷たい風が、潮の匂いを孕んで吹きつけるのみ。
独りで過ごすには、都合が良かった。
砂浜に腰を下ろして、鈍色の海を眺める。
上着もなく飛び出した身に寒さが沁みたが、それすらもどうでも良かった。
寄せては返す波を瞳に映し、思考は再び疑念に沈む。
――俺は、何のために生きているのだろう?
時間の感覚は、とうに失われていた。
辺りは既に薄暗く、気温は下がる一方だったが、この場を動く意思はまったく湧いて来ない。
ここで膝を抱えて凍え死んだとしても、それはそれで構わない――そんな投げやりな考えすら浮かぶ。
思索に没頭するあまり、外界に対する警戒が失われていたのだろう。
背後から声が聞こえてくる直前まで、俺は、その気配にまったく気が付かなかった。
「海で自殺すんのはお勧めせぇへんで。
苦しいし、極楽に行くよか、死んでも彷徨ってまうでー」
振り返ると、少し離れた位置に、奇妙な男が立っていた。
一見して寺の小坊主といった出で立ちだが、頭には緑色のバンダナを巻き、丸い色眼鏡をかけている。
歳の頃は俺と同じくらいだろうか。背は高く、やけに細長い印象を受けた。
「……海を、眺めていただけだ」
まさか、ここに足を運ぶ者があろうとは。
内心で舌打ちしつつ、おざなりに言葉を返すと、男はさも意外そうに片眉を上げる。
「寒風吹きっさらしとんのに、何楽しいもん見えるかいな」
「何が見えようと、お前の知ったことじゃないだろう」
「あー、うん、知ったこっちゃないな。何も見てへんように見えるけど」
俺の表情が一瞬凍ったのを、男は見逃さなかった。
――おもろいやっちゃな。そう言って、俺の方へと一歩足を踏み出す。
「寄るな」
反射的に、拒絶が口をついて出た。
「ほな、お前さんは孤独を望んでるっちゅーんか? 死にそうな顔して」
俺は、答えない。片手は、無意識に傍らの砂を握り締めていた。
「お前さんさぁ、ほんまに独りになりたいん、かっ」
視線を伏せた隙、男の声と、それに被さるように、何か軽いものが額に当たる。
男が自らの草履を脱ぎ、俺目掛けて投げつけたのだ。
顔を上げると、してやったり、といった表情の男と目が合った。
「なりたい、もくそもあるか、俺は元より独りだ」
草履を放り捨て、声を荒げて男を睨む。
「望んで独りになっとる奴が、そないな目ぇする訳、あらへん、やろっ」
俺の視界を塞ぐように、再び投げられた草履。
それを払い除け、立ち上がろうとした瞬間。
一足飛びに距離を詰めた男が、上から軽く手刀を打ち下ろしてきた。
「人をほんまに避けたいんやったら、隙の無い目になるもんや。
――お前さんは、ちゃうな。
人恋しくて、誰より救いを求めてる癖に、他人を拒絶しとる目やで」
「……何だと」
額を押さえ、抗議する間もなく重ねられた言葉。
口調は軽くとも、そこに隠された鋭さは、俺に反論を許さなかった。
「最初から意味のある人生なんてあらへん。
自分で意味を作るんが、人生らしいで。
――ワイは……作りたいもんがまだ判らんから、旅しとんのやけどな?
旅はええで、うん。なんちゅーか、世界が広がるわ」
人生の意味。俺が、生きていく理由。
答えが出る日は、果たして本当に来るのだろうか。
「誰もが、意味を作ることが出来るとは限らない。
中には……壊すことしか出来ない者も居る」
「――それは、努力を怠りたい奴の言い分やな」
自問自答を繰り返すうち、俺の中で生まれていた諦め。
それすらも見透かすように、男の言葉には遠慮というものがない。
「探しゃえぇやろ。生きてる限り。
お前さんを必要にしてくれるモンも、必ずどっかにゃ居ると思うでぇ」
俺を必要とする者、だと?
笑うことも、泣くことも出来ずに。
やり場のない憤懣を、ただ暴力に転化する術しか知らない。
そんな者を、一体誰が必要とするというのか。
「む、信じとらんな? ほな、予言や。お前さんを必要とするモンが、
お前さんの存在を必要とする存在が、絶対に現れる。
――お前さんがちゃんと探すんやったら、な?」
そこまで一息に言い切り、なお、眉間に皺を寄せたままの俺を眺めて。
男は少し考え込むような仕草を見せた後、ふと、こんなことを口にした。
「せやなー、もし、それでもどーしても、
ど―――してもみっからんかったら、ワイが親友になったる」
さも名案とばかり、満面の笑みで発せられた台詞。
驚きよりも先にこみ上げたのは、苛立ち紛れの怒りだった。
「……心にも無いことを、言うな」
「えー、ワイ、マジやのに。見る目ないなぁ……って、見てないんか」
言葉の意味を量りかね、押し黙る俺を眺めつつ。
頭を掻きながら、男はさらさらと続ける。
「今のお前さん、どこも見てないちゅーたやん。
悩むのにいっぱいいっぱいで、自分しか見てへん感じやもんな。
それじゃ探せへんで、大事なもんは」
「……っ」
知ったような口をきくな。お前に俺の何がわかる。
そう怒鳴ることは、簡単だったに違いない。
ただ、同時に俺は気付いていた。
男が語ったのは、紛れも無い事実。
誰よりも、人と解り合うことを拒んできたのは、俺自身だということに。
「そりゃ臆病者や。いくら壊すんが怖いかて、向けられた心を
否定しかでけへんって、そーとーに情けないと思うで。
そないに逃げとって、どうやって欲しいもん手にいれんねん。
ただの子供の我侭やないか」
まるで、二の句が継げなかった。
認めたくはない。でも、認めざるを得ない。
答えが欲しければ、自分から向き合うしかないのだ。
わかっている。
独り、心閉ざした世界に安寧などありはしない。
そこにあるのは、何ものにも繋がらない、虚無だけだ。
わかっている。……初めから、わかっていた。
「んま、それは、お前さんがいっちゃんよく知っとるやろ。
――あとは、自分でよう考えや」
先に投げた草履を拾い、それを履き直して。男は、緩やかに踵を返した。
十歩ほど歩いた後、思い出したように振り返り、にっと笑みを浮かべる。
「あ、さっきの予言も親友宣言も有効やからなー。
またどっかで会うたら、探して見つかったか訊くからなぁー、
忘れんなよっ」
言うだけ言って、男は軽い足取りで去っていった。
その姿を見送った後、俺はしばらく砂浜に留まり続け。
なおも答えは見えないまま、それでもどこか、心が軽くなったのを自覚して。
すっかり暗くなった頃に帰宅し、玄関で待ち構えていた祖父の張り手一発で免罪となったのが、この日の顛末である。
海で出会ったあの男とは、とうとう、互いに名乗ることもなく。
光庭で再会し、その名を知ったのは、それから4年近くが過ぎた後のことだった。
* * *
「寅靖……何するしてる、か?」
ある冬の日の帰り道に、ふと通りがかった海。
思わず足を止め、それを眺めていた俺に、声をかける者があった。
振り返ると、そこには軽く首を傾げる蓬琳の姿。
「海、見る……する、好き?」
蓬琳の問いに、俺は黙って首を横に振る。
海は、今もあまり好きではない。
不安定に揺らめく波も、吸い込まれそうな潮の気配も。
虚ろに広がる水面の色も、底の知れない寂しさも、全て。
それでも、もう、惑わされて見失うことはなかった。
――俺が、存在し続ける理由。生きて、護るべきもの。
その一つは、今、俺の前で、不思議そうに目を瞬かせていた。
【♪レゾンデートル/ナイトメア】