その百八つの鐘は、人が持つ煩悩や苦しみを払うといわれる。
一年の締めくくりとなる大晦日、俺は除夜の鐘を撞きに、凶峯慈の生家である寺まで足を運んでいた。
良かったら来ないか、と俺を誘ったのは凶峯慈だ。
今までも、本堂の大掃除の手が足りないからアルバイト代わりにどうだ、などと肩を叩かれることは多かったから、特に不思議なことではない。
ただ、都合がつかなかったのか、そもそも声をかけたのが俺一人であったのか。
鐘撞きの列に、知った顔は他に見当たらなかった。
順番待ちの歩を進めるたび、鐘の音が腹の底からじわりと響く。
冷えた空気の中、吐く息が少しずつ、清々しさを増していくように思われた。
心が洗われるとは、こういうことを言うのだろうか。
列が進み、やがて俺の番になった。
階段を上り、直前に撞かれた余韻が消えるのを待ち、手を合わせて一礼する。
撞木から伸びた綱をしっかりと握り、真っ直ぐに一回、鐘を撞いた。
綱を握る腕から、地についた脚から、身体を突き抜けてゆく鐘の音。
除夜の鐘を見守る参詣客も多かったが、視線は何故か気にならなかった。
「よーっす、お疲れ。今年ももうすぐ終わるなぁ」
鐘を撞き終え、列から離れてすぐ、凶峯慈が俺の姿を認めて軽く手を上げる。
緑の髪を一部だけ黄色に染め、丸い色眼鏡をトレードマークとする、この飄々とした風体の男が、まさか寺の息子だとは、参詣客の誰も思うまい。
「……んで、当たったか? ワイの予言」
唐突に発せられた一言に、思わず目を丸くする。
はて、俺に関する予言など、この男の口から発せられていただろうか。
しばらく考え込んだ後、ようやく、古い記憶からその言葉を思い出す。
今から数年前。互いに名も知らぬまま、交わされた会話。
ここまで歩んでいくうち、得られたもので、俺が変わったとするなら。
最初の一つは、おそらく其処にあったのだろう。
「――ああ、当たった」
大きく頷きを返すと、凶峯慈は満面の笑みを湛え、俺の肩を軽く叩いた。
「おめっとさん、ワイの云ったとーりやったろ。
ほな、もう一つ、あん時ワイが云ったことも覚えてるか?」
厳かに除夜の鐘が響く中、いつか聞いた潮騒が、脳裏にじわりと蘇る。
数年を経た冬の海は、時を隔てて遠く、それでいて、記憶の中で奇妙に鮮やかだった。
覚えている。
身を切る寒さと、どこまでも続く滄海の虚ろな色と。
そこで交わされた、やり取りの全てを。
「……本当に、物好きな奴だな」
「おう、昔からなっ」
ああ、まったくだ。
軽く悪態をつきかけた時、俺たちの横を一組の家族連れが通り過ぎる。
お父さん、と父親を呼ぶ女の子の声が、俺を思わず振り向かせた。
――お父さんが出来て、とっても嬉しいんよ。
それは、つい先日に聞いた、よく知る声に重なる気がして。
「ん、どないした?」
「いや……」
曖昧な返事で誤魔化しつつ、元の方向へと向き直る。
年齢より老けた顔つきを、からかい混じりに父親のようだと評されたことは何度もあった。
だが、まさか。
たった一つだけ年下の女の子に、父親と呼ばれる日が来ようとは。
そして、それを了承した時、あんなにも喜ばれようとは。
その関係を、思ったよりもすんなり受け入れている自分もまた、不思議ではあった。
繋がっていく縁。
己が寄せる想い、己へと寄せられる想い。
愛情。家族。そして絆。
俺は今、間違いなく幸福なのだ。
心の底から、そう、思った。
「――お、そろそろ年明けやな」
凶峯慈の声に、想いに沈みかけていた意識が鐘の方へ向けられる。
年を越えるまでに百七つ、新年を迎えて最後の百八つを数える除夜の鐘も、いよいよ大詰めらしい。
この年、巡り合えた、かけがえのない絆に感謝を。
新しく来る年、大切に想う者たちのもとに、より多くの幸せがあるように。
鐘の音に、耳を傾け祈りつつ。
今にも年明けを迎えようとする俺の心は、どこまでも穏やかだ。
ありがとう。
これからも、どうかよろしく――
その想いは、新年を告げる鐘と同時に、俺の中をそっと、満たしていった。