帰り道、近所の公園で泣いている子供を見かけた。
転んで膝を擦り剥いたのだろうが、近くに親らしき人の姿はない。
俺は子供嫌いではないが、なにせ子供の方から避けられる性質だ。
だから、普段は殊更に怖がらせないよう、あえて接触しないようにしている。
ただ、怪我をしているなら放っておくわけにもいかないだろう。
そう考えた俺は、その子供へと歩み寄っていった。
傷を診た限りでは、そう酷く擦り剥いたわけではないらしい。
声をかけて宥めながら水飲み場に連れて行き、軽く泥を流してから手持ちのハンカチを膝に巻く。じきに、出血は止まるだろう。
しかし、手当てを終えてもなお、子供は一向に泣き止む気配がない。
困り果てていたところに、誰かが俺の肩をそっと叩いた。
振り向くと、そこには男子用の制服に身を固めた翳の姿。
驚く間もなく、彼女は指で一本の木を指し示した。
子供が転んだ場所の真上に位置する枝に、大きな風船が引っ掛かっているのが見える。
「悪いが、この子を頼む」
合点がいった俺は、泣く子供を翳に預け、その木へと向かった。
軽く勢いをつけて幹を掴み、身体を安定させてから片腕を伸ばして風船の紐を掴む。
「ほら、もう離すんじゃないぞ」
風船を手に戻してやり、ようやく子供にも笑顔が戻る。
それを眺める翳の表情は、まるで母親のようでもあった。
やがて、子供は迎えにきた母親と手を繋いで帰っていった。
礼を言いながら手を振る子供に手を振り返していると、隣にいた翳が静かに口を開く。
「優しいんですね……」
面と向かって言われるには、少々照れる言葉だ。
俺はホットの缶コーヒーを2本買い、うち1本を、風船のことを教えてくれた礼にと、翳へと渡した。
そのまま、二人で近くのベンチへと腰を下ろす。
そこからは、少し離れた砂場で子供たちが遊んでいるのが見えた。
「……平和、だな」
「そうですね……」
無意識にそう呟いた俺に、翳が答える。
独り言を聞かれた気恥ずかしさに、つい、口が軽くなった。
「――あの街は今どうなっているだろうかと、考えていた」
“女王”の誕生により、今や“土蜘蛛”の巨大な巣と化してしまった街。
“世界結界”の力で若干被害は抑えられているものの、既に犠牲者は出てしまっている。
人通りの絶えたあの街で、子供が外で遊ぶことは、おそらく、ない。
放っておけば、被害は増える一方だ。
だから、学園は能力者を結集し、“土蜘蛛”たちとの決戦を行うことにした。
決行の日は、もう数日後に迫っている。
「……行くんですか?」
「ああ。君も……?」
「現地で、メディックを考えています……渕埼さんは……」
「俺は、ラストスタンドに行こうと思っている」
翳は負傷者の治療を主とする“メディック”、俺は最終防衛線を死守する“ラストスタンド”。
ポジションは違っても、同じ戦場へと赴くことに違いはない。常に、危険は付きまとう。
翳の身を案じる俺に、彼女は「大丈夫ですわ」と微笑した。
「今まで、護られて来た分の恩返しですから……。
知らなくて済む人たちには、知らせずにおきたい……。
こんな日常があるということは……」
その言葉はそのまま、俺の思いでもあった。
「俺は、つい最近まで護られる側にいたんだ。
だから――出遅れた分、これからは己の役目に忠実でありたい」
「……強いですわね」
そう囁いた声が、いつにも増して儚く響く。
「……私は、何かに縋らなければ、歩くこともままなりません。
自ら道を選び取るほど、強くないのです」
翳の瞳は、ここではなく、どこか遠い虚空へと向けられているようでもあった。
彼女がベンチを立ち、「……それでは」と身を翻した時、俺はいてもたってもいられず、その細い手首を掴んでいた。
放っておいたら水の泡のように消えてしまうのではないかと、本気でそう思った。
「帰る場所は、俺たちが護る。だから……君も、必ず帰ってきてくれ」
俺の言葉に、翳がひどく驚いた顔で動きを止める。
「……すまない」
我に返り、慌てて手を離すと、彼女は「……いえ」と答えた後、夕闇の中を走り去った。
呆然と立ち尽くしたまま、俺は翳の手首を掴んだ自分の右手を見る。
まるで温度というものを感じない、氷のような感触。
俺自身の困惑とともに、それはいつまでも掌の中に残っていた。
〔続く〕
【♪蝶/ZABADAK】