※エイプリルフールの仮想設定における連作SSです。
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〔承前〕
【Down the Despair ―闇に堕ちる】
光に満ちた幸福のすぐ裏側には、絶望の暗闇が息を潜めている。
隙あらば運命を真逆に裏返し、人を地獄へと誘うためだ。
それは遠い昔、大きすぎる犠牲と引き換えに得た教訓だった。
結婚の約束を交わした恋人と、彼女に宿った俺達の子と。
俺は、一瞬にして全てを喪ったのだ。
あの時のことは、一瞬たりと忘れたことはない。
入籍を間近に控えて、彼女のお腹も目立ち始めた頃だった。
空には雲一つなく、嫌味なくらいの晴天だったのを覚えている。
当時、彼女は産科通院のために路線バスを利用していた。
彼女が乗ったバスが、爆発事故に巻き込まれたかもしれないと――報せを受けたのは丁度昼時だった。
動揺で目の前が真っ暗になり、最悪の事態を想像して竦む足を自ら叱咤しつつ、狂ったように彼女の消息を捜し求めた。
現場は混乱を極め、乗客の身元はおろか、負傷者の搬送先すら確認が進まない。
間違いであってくれと、一縷の望みを託してかけ続けた電話は一向に繋がらず、不安と焦燥はますます増していく。
事故の報道でリアルタイムに増えていく死傷者の数が、それに拍車をかけた。
結局、彼女と再会するまでに数日を要した。
無言で横たわる白い棺が、憔悴しきった俺を待っていた。
お腹の子もろとも即死だっただろうと告げられた時、激しい嗚咽とともに崩れ落ちたのか、狂った絶叫で現実を否定したのかは、はっきりとしない。
確実なのは、彼女の葬儀を終えて暫くは魂の抜け殻であったということだ。
寝ても覚めても、思い出ばかりが浮かんでは消えてゆく。
初めて出会った日のこと。
恋人として付き合うことになった日のこと。
指輪を差し出してプロポーズした日のこと。
結婚の準備を進める最中に、子供が出来たと告げられた日のこと。
そして……。
思い出を辿れば、必ず最後に彼女の死へと結びつく。
喪失の記憶を再生することは耐え難く、いつも直前で回想は止まった。
代わって、繰り返されるのは虚ろな自問自答。
――何故、彼女は死ななくてはいけなかった?
俺と出会ったから。
俺が結婚を申し込んだから。
俺の子を宿したから。
だから、彼女は産科に行くためにバスに乗った。
そして……事故で死んだのだ。
俺は彼女を救えなかった。
能力者でありながら、愛する人の命すら守れなかった。
――つまり、彼女を死に追いやったのは俺だ。
ひたすらに自分を責め、追い詰める日々。
絶望の闇に一筋の光明が生まれたのは、まったくの偶然からだった。
荒れ果てた部屋で、床に散乱した雑誌を片付けようともせず、開かれたままのページをぼんやりと眺めていた時。
一つの記事が、俺の目を惹いた。
それは“星海の畔”の伝説を書いた記事だった。
ある“対価”と引き換えに、人を過去へと導いてくれるのだという。
以前に読んだ時は、ただの与太話と決め付けて一笑に付した。
即座に忘れ去り、この時まで思い出すこともなかった。
しかし、藁にも縋る思いだった俺は、この荒唐無稽な伝説に希望を見た。
もし、この畔が実在し、俺の寿命を対価に過去に赴けるなら。
彼女の死という忌まわしい事実を、無かった事に出来るかもしれない。
そう考えた俺は、憑かれたように伝説を追い始めた。
まっとうな手段で得られる情報はすぐに途切れてしまい、進退窮まった俺は自らの能力を暗殺に用いることで裏社会に身を投じた。
結婚資金として貯めていた預金も残り少なく、また、調査の手を広げて情報を集めるためにも、先立つものが必要だったのだ。
そうやって、俺は喪われた過去を追い求める血塗れの道を選んだ。
彼女の生を取り戻すため、この手で他人の生を奪い続けた。
それが正しいと思い込むほど、まだ俺は狂っちゃいない。
他に道はなかった。それだけの事。
――本当に?
最愛の者を失った人間が皆、俺のように道を踏み外すわけではない。
いかなる状況であろうと、救いの道はどこかに残されている。
時間とともに、心の傷は癒えたかもしれない。
思い出を抱いて、彼女の分まで精一杯に生きようと思えたかもしれない。
もしくは、新たな出会いによって救われたかもしれない。
他に道がなかったわけじゃない。
そういった道を切り捨てたのは、他ならぬ俺自身だ。
ふと、思う。
ユエは――あの相棒は、今の俺を見て何を思うのだろう。
彼女が死んだ時も、魂の抜け殻のように過ごした日々も。
裏社会で殺しを始めた時も、そして今も。
ユエは変わらず、傍にいて俺を支えてくれている。
世界中の全てが俺の敵になろうとも、ユエは俺の隣で戦ってくれるだろう。
その絆に、俺はずっと甘えてきたのではなかったか。
ユエの瞳に、今の俺はひどく醜く見えているのではないだろうか。
何よりも、俺が自ら袋小路へ足を進めていくことを、悲しむのではないだろうか。
でも、もう後戻りは許されないのだ。
いつか必ず、ツケを支払う時が来るだろうと、俺は確信している。
せめて、それが俺の願いが叶った後であることを、祈るしかなかった。
だから進む。振り返らずに進む。
罪と血を、この身に塗り重ねながら。
〔続く〕