※エイプリルフールの仮想設定における連作SSです。
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〔承前〕
【Postlude ―帰還】
「お父さん、まだ読んでるの?」
いつの間にか、立ち読みに夢中になっていたらしい。
息子の声で我に返った俺は、読んでいた本をそっと閉じた。
「――ああ、ごめん。そろそろ行こうか」
「うん、お母さん待ってるよ」
本を棚に戻し、息子と手を繋いで歩き出す。
「あれ、本買わないの?」
「……うん、いいんだ」
「変なの。『不思議の国のアリス』って子供の本でしょ」
小学生の息子は、年齢の割に口が達者だ。
時折、こんな大人ぶったような台詞をさらりと言う。
「何だか懐かしくてね、つい」
そうは言いつつも、子供の頃に夢中になった本というわけではなかった。
タイトルは知っていても、物語の内容までは詳しく覚えていない。
俺の興味を惹いたのは、あの本の表紙に描かれていたイラストだ。
懐中時計を手に、少女を不思議の国へ導く兎――。
それだけが、妙に心に引っかかったのだった。
自らの人生を語るには、俺はまだまだ若すぎる年齢なのだろうが。
ここまでは、至って順調で平穏だったと言って良いと思う。
恋をして、結婚して家庭を持ち、子宝に恵まれ。
家族仲は良く、家の中はいつも笑い声が絶えない。
仕事は充実しており、有難いことに経済面でもさほど不安はなかった。
これを幸福と呼ばずして、何を幸福と呼ぶのか。
人はそう言うだろうし、俺も反論は出来ない。
ただ、俺はたまに怖くなる。
この幸せこそが、夢ではないだろうか、と。
いつか目覚める時が来て、全て消えてしまうのではないか――と。
まるで子供の空想だが、子供の頃にそんな事は思わなかった気がする。
俺がそう考えるようになったのは、いつからだっただろうか。
切欠があったはずなのだが、よく思い出せない。
どうしても思い出せないことは、もう一つあった。
心の片隅に、不意に穴のような隙間を感じることがある。
決して、今の生活に満たされていないわけではなく、普段は滅多に意識することもないのだが。
自覚してしまうと、それが誰にも埋められない場所だと気付くのだ。
妻も息子も、友人も――誰一人、その隙間にしっくり合わない。
遠い昔、大切な存在が占めていた場所だということはわかる。
でも、それが誰であったか、肝心なことをまったく覚えていないのだ。
大きな事故などで記憶を失ったというならともかく、どうにも腑に落ちない。
無論、俺の平穏な人生で、そんな事故に巻き込まれた経験などなかった。
帰り道、息子が不意に口を開く。
「ねえ、お父さん」
「――ん?」
「知ってる? 人だけが使える魔法のこと」
「魔法?」
「そう、魔法」
俺を見上げる息子の顔が、夕陽に照らされ、妙に大人びて見える。
「あれが欲しいとか、これがしたいとか。今の自分にないものを願って、未来に叶えられるのは、人だけなんだよ」
夢を見て願うこと、それ自体が魔法であり、そこには大きな力が宿るのだと――そう、息子は言う。
「へえ。誰に聞いたんだ? そんな難しい話」
「……忘れちゃった」
悪戯っぽく、ぺろりと舌を出した息子の表情は年齢相応に戻っていた。
並んで歩く二人の間に、再び沈黙が落ちる。
幸福に生きる、今の自分にないもの。
心から願うことがあるとすれば、ただ一つだけ。
――あの“誰か”に会いたい。
顔も名前も覚えていないのに、会いたいも何もないのだが。
遠い昔に別れた大切な“誰か”に、今の俺を見てもらいたかった。
俺の幸福は、きっと“誰か”が与えてくれたものだから。
いつか人生が幕を閉じる日まで、与えられた命で懸命に生きる。
“誰か”がくれた幸福を、一夜の夢で終わらせないように。
俺は決して、諦めたりしない――“今度こそ”。
――だから、せめて一目だけでも会いたい。
『望みには手段を――』
遠くに、少年の声を聞いた気がした。
夕焼けの空は瞬く間に夜の色に染まり、周囲の風景が一変する。
深い闇から次々に浮かび上がる、無数の銀の光。
眼前に広がったのは、数多の星を水面に散りばめた海――だった。
輝く星々の流れを縫うように、銀の舟が音もなく近付く。
舟の上には、人影がふたつ。
銀の櫂を操る、白にも銀にも見える仮面の渡し守。
金時計を腰に下げ、黒兎の耳を風にそよがせる銀髪の少女。
声も出せずに立ち尽くす俺に、銀髪の少女が顔を向けた。
金色の瞳と視線が合い、しばし互いを見つめる。
驚きの表情を浮かべたのは、果たしてどちらが先だったか。
この少女だ。この、少女こそが――。
「……、……っ!」
ようやく出会えた“誰か”の名を呼ぼうとする。
だが、どうしても声にならなかった。
幾度と呼んだはずの名前が、頭文字すら出てこない。
過去に失った大切な“誰か”――兎耳の少女も、何も言わなかった。
嬉しそうな、今にも泣き出しそうな、そんな表情をしていた。
全てを思い出せそうで、でも何一つ思い出せない。
もどかしかった。ひどく悲しかった。
代わりに、心で強く呼びかけた。
俺は幸せだよ。お前のおかげで、やっと幸せになれたんだ。
本当は――お前を失う前に、それを掴めたら良かった。
そうすれば、今でも一緒に居られただろうに。
大丈夫、俺は生きるよ。
“今度こそ”――道を間違えたりしないよ。
じゃなかったら、お前に顔向けが出来ないじゃないか。
少女は、金色の瞳を涙でいっぱいにして、大きく頷いた。
良かった。俺の思いはきっと、伝わったはず。
手を振る少女に、俺も手を振り返す。
ぱちり、と小さな音。
少女の傍らに立つ渡し守が、仮面に手をかけてゆっくりと外した。
まだ幼さの残る、少年の顔。
どこかで見た顔のようでもあり、まだ見たことのない顔のようにも思えた。
息子が大きくなれば、このような顔になるだろうか――?
少年が口を開き、穏やかな声が流れる。
『その道行きが、“今度こそ”――後悔せぬ道で在らん事を……』
ああ、約束しよう。
“今度こそ”俺は決して、悔やんだりしない。
『――“お父さん”』
俺を呼ぶ声が、急激に遠ざかっていく。
いや。再び――近付いてくる……?
「……父さん、お父さん!」
息子が繰り返し俺を呼びながら、腕を強く揺さぶる。
あたりを見渡すと、風景は元の夕暮れの街に戻っていた。
「ああ……ごめん。少し、考え事をしてたんだ」
「大丈夫? 今日のお父さん何だかヘンだよ」
下手な言い訳に、息子が怪訝な表情を返す。
まだ、あの世界から心が充分に帰ってきていない気がした。
星の海の畔に立ち、銀の舟を見た。
舟の上には、とても大切な子たちが乗っていて。
思いを、言葉を交わした。
夢でも幻でもいい。俺の願いは、叶えられたのだから。
息子と並んで歩きながら、そっと茜色の空を見上げる。
上を向いていないと、涙が零れてしまいそうだった。
――帰ろう。俺が生きる日常へ。
暖かな思いを胸に、俺は息子と手を繋いで家路についた。
夢を見たのは誰?
どこからどこまでが夢?
それは、長い長い夢物語――。
〔了〕