数日前から、大掃除の一環として空き部屋の押入れの整理をしている。
元は俺の父母が使っていた部屋であるらしいが、主を失って二十年近くが過ぎたそこは、やけにがらんとしていて、生活感に乏しい。
当然、現在は使って居ない部屋であるし、もともと部屋数だけは無駄に多い家であるから、特に物の収納場所に困っているわけでもない。
祖父が何故、この押入れの整理を唐突に俺に命じたのか、その意図はわかりかねた。
その祖父は所要で家を空けており、何かと作業の邪魔をする桜は炬燵のある居間に閉じ込めてある。
この部屋に居るのは俺一人だった。
押入れの中にある荷物は、殆どが父や母の遺品である。
1歳の時に両親を一度に亡くした俺にとって、見覚えすらない物ばかりだ。当然、一つ一つの要不要など判別できる筈もない。整理といっても、物の場所を入れ替えるくらいしか出来なかった。
両親の遺した物を見ても、何の心の動きも持てない自分に嫌気がさす。
直接、父や母のことを覚えていられたら、また違ったのだろうか。
仏間の遺影で見た生前の顔。
墓石に刻まれた名前と、世を去った日付。
祖父から伝え聞いた生年月日。
俺が知る両親の全ては、そんな記号の羅列に過ぎない。
どんな顔で笑ったのか。日々のどういうことに喜び、悲しんだのか。
確かなものは何一つ、俺の中に残されてはいなかった。
気が滅入り、早めに済ませようと溜め息をついた時。
引っ張り出した段ボール箱の中に、古い家計簿が目についた。
遺品として大切に取っておくには違和感があるほど、使い込まれて紙も少し痛んでしまっている。
表紙には『1990』の表記があり、母が亡くなる直前まで使っていた物と思われた。
家計簿を取り出すと、その下には大学ノートの束が積まれている。
やや角ばった丁寧な筆跡で日付が書かれているところを見ると、日記か何かだろうか。
一番上のノートには『1990年9月~』とあり、やはりこれも亡くなる直前のものと思われる。
躊躇った後、俺はそのノートを手に取った。
ノートの中には、表紙と同じ筆跡が規則正しく並んでいた。
どこかで見たことのある字だと思えば、自分や祖父の書くそれに似ているのだと気付く。とすると、書き手は父ということか。
日記には、日付や天候の他、その日にあった出来事が簡潔に綴られていた。
この時期は仕事が非常に忙しかったらしいことが、記述から伺える。
幼少期に病弱であった父は、3人兄弟で唯一、渕埼流古武術の継承権を持たなかったので、会社員として生計を立てていたと聞いた。
生来争いを好まぬ性格であったため、その方が幸せであったかもしれぬ、と祖父が呟いたのを覚えている。
俺は日々の記述から、父のそういった思いを読み取れないものかと思ったが、客観的な視点に徹した簡潔な文体から、父本人の情動を感じ取ることは難しかった。
やがて、ある日付を最後に白紙のページが続く。
最後の記述は父母の命日の、直前の日付。
月単位で遅れた夏期休暇の日程と、高速道路のルートを交えた行き先のメモ。
この翌日、父は母と俺を乗せてこの場所へと車を走らせ。
その帰り道、母ともども帰らぬ人となったのだ。
銀の雨が生み出したゴーストによって――
しばらく最後のページを見つめた後、小さく息を吐いて先のページへと戻る。
俺は何を探しているのだろうと、頭の片隅で思ったその時。
奇妙な記述が、目に映った。
『3/11 女の子?』
実際の日記より、何ヶ月も後の日付が唐突に出現している。
その下には、女性の名前が幾つも書き連ねてあった。
まさか父の浮気相手ではあるまいな、と思わず下世話なことを考えた直後、一つの可能性に思い至って、俺は持っていた大学ノートを取り落とした。
慌てて家計簿を手に取り、該当の日付を探し当てる。
どうやら母も、家計簿を日記代わりにしていたようである。
柔らかい筆跡は、先に予想していた真実をその通りに告げた。
『女の子の可能性は80%とのこと。あの人に伝えたら、もう名前を考えると言うので、気が早いと笑ってやった。一人目で期限ギリギリまで悩んでたから、その気持ちはわかるけどね、とお義母さんも笑っていた』
その下には『予定日:3月11日』の走り書き。
弾かれたように立ち上がり、仏間へと駆け込む。
先日、大掃除を済ませたばかりの仏壇。
両親と祖母、父の兄である伯父たちの位牌が並ぶ中、片隅に小さな位牌が置かれているのを、俺は知っていた。
それが誰のものなのか、俺はこの時になるまで考えもしなかったのだ。
どうして、今まで気付かなかったのだろう。
あの日失われたのは、父と母だけではなかったのだ。
母の中に宿っていた新しい命――おそらくは妹――も、この世へ生まれ出ることなく、逝ってしまった。
足元がぐらつくような錯覚。深く息を吸い込むことさえ難しかった。
崩れるように仏壇の前に腰を下ろし、震える手で蝋燭に火を灯す。
ようやくの思いで線香を供え、手を合わせた。
――すまない。ずっと気付いてやれなくて、すまない……。
ゆっくりと目を開いた時、視界の端が歪んだ。
しばらく言葉が見つからないまま佇み、押し寄せる感情に翻弄されるまま、腰を上げて仏間を出る。
今は駄目だ。落ち着いて話せるような状態ではない。
元いた部屋へと戻り、襖を閉めた後。
先ほど取り落とした大学ノートの端から、厚手の紙のようなものが覗いているのが見えた。どうやら、元々ノートに挟んであったものらしい。
取り上げると、それは一枚の写真だった。
自宅の前で赤子を抱き上げる母と、その隣に寄り添う父。
二人とも、遺影で見た表情よりずっと、穏やかな笑顔でいる。
母の腕に抱かれているのは、幼い頃の俺だろう。
死の直前まで、父は自らの日記にこの写真を挟んでいたのだ。
写真の中で笑う両親はもう居ない。
生まれてくるはずだった妹も、どこにも居ない。
漸く間近に感じた両親の愛情が、悲しいほど暖かかった。
永遠に失われた家族との日々を想い、胸が引き裂かれるような痛みを覚えた。
祖父がどうして自分に押入れの整理を命じたか、理解できた気がした。
喉の奥から嗚咽が漏れる。
祖父が出かけていて良かったと考える自分が、妙に子供っぽく思えた。
涙で濡らさぬよう、持っていた写真をそっと畳の上に置く。
――物心ついてより初めて、俺は声を上げて泣いた。