酷く、時間がゆっくりと流れているように感じられた。
左の肩口から袈裟懸けに裂かれた背中の激痛、そこから溢れ出す血の熱。
衝撃に痺れる意識、右手に握ったトンファーの感触。
砕けかけた膝を支え、振り返りざま身体を捻るように一撃を叩き込む。
それは、俺の血に濡れた鉤爪を振りかざす地縛霊の顔面へと吸い込まれていった。
ゴーストの断末魔が響き渡り、最後の抵抗とばかり両の鉤爪を跳ね上げる。
弾かれたトンファーは俺の腕を離れ、やがて床に鈍い音を立てた。
自分の呼吸が、やけに耳障りに聞こえる。
眼前には、こちらに向ってくるゴーストが一体。
それだけを見据え、身体ごとぶつかるように、ガントレットの拳を撃つ。
風を切るような音とともに、かき消える敵の姿。
――あとは、何体だ……?
拳を引き抜き、視線を巡らせようと首を振った時、俺の身体が大きく揺らいだ。
強くなる血の匂い。唐突に薄暗くなっていく視界。
まるで他人事のように、感覚から切り離された痛み。
鼓動が波打ち、その度に熱いものが流れて落ちていく。
「――駄目……!!」
何かを懇願するような悲鳴。
闇に散る、幾つもの銀の輝き。
俺を受け止めた柔らかい腕の感触と、優しくも哀しげな歌声。
流れる旋律は、シューベルトのアヴェ・マリア――
全ては、俺の意識が途切れかけた一瞬の出来事。
重い瞼をうっすら開くと、そこは銀色の輝きに埋め尽くされていた。
無数の淡い光が舞うように飛び回り、ゴーストの群れを取り巻いている。
光の動きが激しくなると同時に、ゴーストは一体、また一体と、次々に姿を消していった。
銀の光の中、微かに見え隠れする小さな羽根を認めて。
俺は、その正体が翳の白燐蟲であることを悟った。
今は亡き婚約者が、彼女に残した遺産。
以前、白馬から話だけは聞いていたが、翳自身がそれを使役しているのを見るのは初めてだった。
「かす、み……?」
すぐ背後から響く、アヴェ・マリアの歌声。
俺の両腕ごと抱き締めるかのように、背中越しに回された白い腕。
振り返ると、そこには今にも泣き出しそうな表情で歌い続ける翳の姿があった。
視線が合ったところで、翳がゆるゆると首を小さく横に振る。
まるで、不安に震える子供のように。
――ああ……怖い思いをさせたな……。
ようやく明瞭になった意識が、禍々しい気配を捉える。
顔を向けると、白燐蟲が喰い残した武者鎧のゴーストが一体、俺たちに狙いを定めて動き出していた。
あれが、最後の敵。
あれさえ倒せば、この場における安全は確保できる。
翳を、護りきることができる。
迷いは、なかった。
翳の腕を振り解き、床を大きく蹴ると同時に左腕のリボルバーガントレットを起動させる。
ヒーリングヴォイス――歌に込められた癒しの旋律は、俺に若干の力を取り戻させていた。
必要なのは、あと、たった一撃。
それで、充分だ。
眼前に迫ったゴーストの振り上げた刀をかい潜り、その懐に踏み込む。
ガントレットの回転動力炉が、悲鳴のような軋みとともに激しく唸りを上げた。
左腕は流れ込む“力”を纏い――血が、滾る。
「――おおおおおおおッ!!」
地下に響き渡る咆哮。
残る全てを懸けて、俺はゴーストの巨体目掛けて渾身の拳を放った。
〔続く〕
【♪アヴェ・マリア/シューベルト】