【※背後より】
『寅靖の祖先が土蜘蛛である』という仮想設定のもとで
忘却期以前の渕埼家の始祖を書いた連作SSです。
(事実とは限りませんし、表でこの設定を用いる事もありません)
これでもかという程に自己満足全開です、予めご了承下さい。
〔承前〕
唐突に現れた男を、女はただ眺めていた。
自らより頭一つ近く高いであろう、大柄で骨太な、引き締まった体躯。
光の加減で茶色がかって見える黒い髪と、同じ色の瞳。
眼光は、女を射抜くように鋭い。
顔の彫りは深く、鼻筋が通っている。
両の腰には、使い込まれた様子の黒い短刀が一振りずつ。
隙のない仕草、身に纏った獰猛な気配。
そして、血の臭い。
どう好意的に取っても、平和を愛する者とはとても思えぬ。
こんな場所に居を構えたからには、覚悟はとうに出来ていた。
――ただ、女は男を見つめる。
「何とか言ったらどうだ。恐怖で気がふれたわけでもあるまい」
恐れる様子もなければ、騒ぎもしない女の態度に焦れて、男は女へと詰め寄った。
女の顎に手をやり、固定した後に男は自らの顔を寄せる。
「それとも、腕にそれほど覚えがあるのか?」
抵抗できるものならしてみろと、脅しを込めて顔を歪ませる。
我ながら、悪党じみた笑みだと思う。
並みの娘ならここで腰を抜かすところだが、目の前の女は表情を変えなかった。
「わたくしの腕では、あなた様に傷ひとつ付けられぬでしょうね」
この時代、人も妖も何かしらの異能を操る。
個々によって力の差はあれど、まったく戦う力を持たぬ者の方が稀だった。
女も些かの心得はあるようだったが、それは男にとって脅威となりうるものと考えづらい。女の言葉は、おそらく嘘ではないだろう。
「俺が人を殺めぬとでも思うか」
否、と女の声。
ならば何故、抵抗の素振りすら見せぬ。
この女、本当に状況がわかっているのだろうか。
ますます焦れた男は、不意に自らの本性を現した。
背中からぞろりと現れる、八本の蜘蛛の脚。
生き物の精気を食らう、土蜘蛛の異能であった。
「このまま引き裂き、食ろうてやろうか」
鋭い蜘蛛の脚を、軽く肌へと食い込ませるように突きつける。
それでもなお、女の表情は動かぬ。
「貴様、死を望むか」
元より生きる意志のない者の命を奪ったところで、面白くもなんともない。
興味を失いかけたところに、またも否、と女の声が響く。
「わたくしは、最期の時までわたくしとして此処に在るだけでございます」
わけのわからぬ事を言うな、と女を怒鳴りつける。
この女と話していると、どんどん己の調子が崩されていくようだった。
「わたくしの家は力を失い、そして名字を失いました。生き残ったのはわたくし一人。後の世に血を残すことも、もはや叶いますまい――それでも」
対する女は、どこまでも涼やかな顔で言の葉を紡ぐ。
やがて、凛とした声が男の耳朶を打った。
「わたくしの死の瞬間まで、一族の血は此処に在りまする」
成る程、粗末な身なりではあっても、確かに佇まいに品がある。
元は名のある家の生まれというのは偽りではなさそうだった。
が、しかし。男が拘るのは、そんな女の出自などではない。
「莫迦か貴様は。俺が貴様を殺せば、一族の血とやらも終わりではないか」
「左様でございますね」
それでも良いのですよ、と女は穏やかに微笑む。
しばし、男と女はそのまま見詰め合った。
「ふん、興を削がれたわ」
先に視線を逸らしたのは、男の方だ。
蜘蛛の脚を引っ込め、腰を上げて踵を返す。
扉で立ち止まり、振り返って女に問うた。
「女、名は何と云う」
「――桜子(さくらこ)と」
あっさりと答えた女は、男に向けて笑いかけている。
穏やかながらも、何か有無を言わせぬような妙な迫力。
名乗り返せと、暗に要求されているのだと気付いた。
なんと厚かましい女か。
「隠青(いんせい)だ。……覚えておけ、必ず、その澄ました顔を恐怖に歪ませてやるからな」
「お待ちしております」
我ながら、芸の無い脅し文句だが。
少なくとも、こんなゆるりとした笑みで応じられる類の言葉ではなかろうと、隠青は思う。
舐められているようで、腹立たしい。
「ちっ、勝手にしろ。冥府で後悔しても知らぬぞ」
腹立たしくなって、捨て台詞とともに扉を乱暴に閉めた。
いよいよもって、男――隠青はこの女がわからなくなり。
同時に、桜子と名乗るこの女にいたく興味が湧いた自分に気付く。
あの女が何者にせよ、暫く退屈はせずに済みそうか。
澱んだ淵の傍にある家を背にして歩き出しながら。
隠青は、屏風の虎にも似た、掴み所のない桜子の気配を思い出していた。
〔続く〕
【♪十三夜曲/姫神】 [YouTube]