「――ああ、夕飯が終わって少ししたらそちらに連れて行くよ。
君には世話をかけるが、よろしく頼む……」
携帯電話を切り、水分や熱の届かない台所の片隅にそれを置く。
夕飯の支度にかかる前に、電話で彩虹へ事情を説明し、今晩は蓬琳を彼女のマンションに泊めてもらえるよう頼んだのだ。
彩虹も、現在は一人暮らしの身である。
蓬琳とも姉妹のように仲が良く、電話で話を切り出したところ、快く申し出に応じてくれた。
――今日は、ホウリンさんのパジャマを買って帰りますわ。
楽しそうに口調を弾ませる、彩虹の声。
それは、包丁を握る俺の耳に、余韻としてしばらく残っていた。
帰宅してすぐ蓬琳の応急処置は済ませたものの、挫いた足は腫れが酷く、まだ動かすには無理がある。
何かと痩せ我慢をしがちな本人の気質から考えても、誰かが傍についていた方が安心と思われたが、流石に我が家に泊めるわけにはいかない。
せいぜい、渋る蓬琳を説得して夕食まで引き留めるくらいが限度だった。
同じ食事にしても、一人よりは二人、二人よりは三人の方が良い。
普段であれば、彩虹もこちらの家で夕食をとることが多いのだが、この日は所用で都合がつかなかったのだ。
調理の手を動かしつつ、ふと、別室に残してきた蓬琳のことを思う。
今は祖父と桜に相手をしてもらっているが、家に着いてからというもの、終始落ち着かない様子なのが少し気にかかっていた。
慣れない場所に戸惑っているのだろうか、と考える一方で、頭の片隅ではまったく別の想いも浮かぶ。
俺が生まれた、この家のことだ。
祖父と、俺と、桜と。
人ふたりと猫一匹で住むには、この家はどう考えても広すぎた。
到底埋められない隙間が、ここには確かに鎮座している。
あるいは“家庭を感じさせる匂い”が薄い、と言えるかもしれない。
家族という存在に裏付けられた温度、雑然としながらも安らぎに満ちた空気。
一般の家庭なら必ずあるはずのそれが、端が欠けたように足りない。
そこまで考えて、ふと気付く。
『光庭』には、程度の差はあれど“家庭の匂い”が薄い者が多くなかったか。
そして――彩虹も、蓬琳も、そういった者の一人ではなかったか。
彩虹が一人で暮らす部屋を初めて訪れた時の、寒々しさを伴った既視感。
蓬琳の、買い物袋いっぱいに詰められた固形栄養食の群れ。
それらを目の当たりにした時に感じた寂しさは、どこか、この家に通じるものがあるように思われた。
これだけ考え事をしていても、毎日の習慣として身についた営みは淀みなく行えるものらしい。
やがて、夕食の支度はすっかり整った。
うっかり味付けを誤らなかっただろうか、とも思ったが、味を見たところ、どうやらその心配は無さそうだ。
食事を運びに座敷の襖を開けると、桜を膝に乗せた蓬琳が、こちらに顔を向けてきた。
配膳を手伝う、と言うのを手で制しつつ、卓上に器や箸を並べていく。
もともと来客を予定していたわけではないから、献立は日常とさほど変わるものではない。
野菜をふんだんに使った肉じゃが、豆腐とわかめ・長葱の味噌汁、ほうれん草のおひたし、白米に漬物。
和食が珍しいのか、じっと料理を眺めている蓬琳の膝から桜を取り上げ、別室に餌を用意して退出させてから、俺も自分の席につく。
「口に合うかどうかはわからんが、食ってくれ」
そう声をかけると、蓬琳ははたと顔を上げ、慌てて姿勢を正すようにして両手を合わせた。
「……いただきます……デス」
律儀に小さく頭を下げる仕草が、何やら微笑ましい。
視界の隅に、例の固形栄養食の袋が写ったこともあり、「この娘は、果たして普通の食事を受け付けるのだろうか」という突飛な不安が脳裏をよぎったが――見る限り、箸を小刻みに動かしながら、ほんの少しずつ、だが確実に、料理を腹に収めつつあるようだ。
「焦らなくていいからな、ゆっくり食えよ」
蓬琳が微かに頷いたのを見届けた後、こちらも自分の食事へと取り掛かる。
それが過不足なく普段通りの味付けであることに、俺は奇妙な満足感をおぼえていた。