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《※背後註》
当エピソードは『寅靖の祖先が土蜘蛛である』という仮想設定のもと
とあるPCさんとの忘却期以前における因縁について描いています。
若干のアンオフィシャルな内容を含む可能性があるため、
そういった仮想設定が苦手な方はご注意下さいませ。
なお、ご登場頂いたPCさん達に関する記述については
PLご本人様より事前に許可を頂いております。
→参考SS(連作) 【淵より至りて】
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目的の店は、海の見える高台にあった。
晴れた空の下、穏やかに凪いだ海を一瞥した後、寅靖は飴色の揺り椅子が置かれた店の入口へと向かう。
揺り椅子の上には“-Vigilia di Natale-”と書かれた黒板と、向日葵の花を抱えたレインコート姿の栗鼠のぬいぐるみ。
これこそが、季節によって場所を変えるこの店の目印だった。
「いらっしゃいませ」
店の扉を開けた寅靖を出迎えたのは、馴染みの双子ではなく、まだ10歳ばかりの小さな少年。
蒲公英を思わせる長い金の髪に、淡い紫色の瞳――初めて見る顔だ。新しく加わった店員だろうか。
寅靖の顔を見上げ、何かお探しですか、と言いかけた少年の表情が、にわかに凍りつく。
「……――き、」
「?」
訝る寅靖。
直後、店内に高い悲鳴が響き渡った。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!?」
呆気に取られる寅靖の眼前で、身を翻した少年が店の奥へと駆け込む。
その様子は、まるで餓えた猛獣を眼の前にした小動物のようで。
「どうした稚都世(ちとせ)、何が――」
悲鳴を聞きつけ、長身の青年が奥から姿を現す。
怯えきった様子で自分の後ろに隠れる少年を宥めた後、青年は店の入口に立つ寅靖を見た。
「――え、渕埼、先、ぱい……?」
何があったんですか一体、と問う青年――いちるの声に、俺の方が訊きたいよ、と返す寅靖。
少年はいちるの背中に隠れたまま、こちらの方を見ようともしない。
自分が子供に対して威圧感を与えやすい容姿であるとは自覚していたが、初対面でここまであからさまに怯えられたという経験も稀なはずで。
そんなに不機嫌そうに見えたのだろうかと、寅靖は困り顔で頭を掻く。
少年が怯えたその理由が、己の生まれる遥か昔の出来事にあるとは――この時の寅靖には、到底知る由もなかった。
この日、男は虫の居所が悪かった。
理由は幾つかある。一つは、容赦なく照りつける真夏の日差しであった。
ここ暫く、雨はおろか雲すら見ていない。雨は雨で続くと鬱陶しいが、こうも降らぬと龍神は何処で油を売っているのかと罵りたくなる。
炎の妖気を自在に操る男は、だからかどうかは知らぬが、寒さに強いが暑さには弱い。運良く水場に辿り着けていなかったら、渇き死にしていたかもしれなかった。餓えではなかなか死なぬが、渇いて死ぬのは容易い。
そう。空腹もまた、理由の一つだった。日照りの影響なのか、最近は狩りに適した獲物がとんと見つからぬ。背に腹は変えられぬと、土を掘り草を食ったこともあったが――どうも毒草であったらしく、逆に腹を壊す始末である。
川の魚もとうとう獲り尽くしたか、今朝から姿が見えぬ。
獲物は一向に見つからぬというのに、夜となれば死霊の群れが襲ってくる。
同じ戦うにしても、空腹を忘れさせるほど愉しませてくれる相手ならば良いのだが。彼奴等ときたら恨み言を吐くばかりで、ちっとも愉しくならない。その上、煮ても焼いても食えぬときている。
そのようなわけで、男の虫の居所はすこぶる悪かった。
だから、男の視界に旅人らしき複数の人影が映った時、友好的な感情など持ちえるわけもなかった。
尤も――それは旅人たちにとっても同じことであったらしい。
男を見て、彼らは武器を手に一斉に身構える。
何者か、という誰何の声が、旅人の口から漏れた。
「貴様ら如きに名乗る名など無いが――まあ良かろう」
武骨な黒い短刀を両の腕に構え、男は眼前を見据える。
不敵とも、不遜とも取れる笑みが、その精悍な面に浮かんだ。
「冥土の土産に刻んで逝け。土蜘蛛“隠青(いんせい)”の名を」
言うが早いが、男は地を蹴って旅人たちへと斬りかかる。
それを迎撃せんとする旅人たちの、頭巾に覆われた髪が露になり――そこから狐の耳が現れるのが、男の瞳に映った。
妖(あやかし)を繰る狐の眷族、妖狐が五人。相手にとって不足は無い。
久方ぶりの昂揚感とともに、男は戦いに五感を集中する。
――そして。戦いが終った時、男の虫の居所は凄まじく悪くなったのだった。
斃した五人の妖狐の屍を横目に、男が憎々しげに血の混じった唾を吐く。
連日の暑さと餓えで、腕が鈍ったか。この程度の相手に手傷を負わされたうえ、異能を全て使い果たそうとは。
幸い、さほどの深手ではない。身を癒す異能の術が無くとも、一晩もすれば癒えるだろう。
しかし、血の気が足りぬ。空腹も、それに追い討ちをかけた。
妖狐たちの屍を漁り食糧を探したが、僅かばかりの干した穀物や木の実の類があるばかりだ。これでは、さして腹の足しにはならぬ。
男は小さく息を吐き、傍らの岩に腰を下ろした。
頭から水を浴びて、全身にこびり付いた返り血を落としたい気もしたが、今は、それ以上に肉が恋しい。
その時だった。男から少し離れた茂みから、微かな物音が聞こえたのは。
視線だけを動かし其方を窺うと、淡い蒲公英色をした仔狐が茂みから顔を覗かせ、僅かに震えているのが見えた。
「ふん、親の仇討ちにでも来たか」
男の低い声に、仔狐がびくりと身を震わせる。
明らかに怯えきったその様子からは、戦意など欠片も感じられない。
しかし、男はさらに容赦のない言葉を浴びせていく。
「仇討ちならば、直ぐに後を追わせてやるから打って来い」
挑発するように両手を軽く上げ、あえて無防備に隙を見せる。
それでも、仔狐はがたがたと震えたまま、その場から一歩も動こうとしなかった。
妖を従える狐といえど所詮は餓鬼、親の仇を討つ覚悟も無い軟弱者か。
男は心中で舌打ちすると、黒い短刀を携えゆっくりと立ち上がった。
「――来ないのなら、頭から皮を剥いで喰う」
刃持て己に向かってくるならば、女子供であれども容赦はしない。
しかし、力も覚悟も無い者と戦うなど、時間の浪費に過ぎぬ。
男は戦いを好むが、無為な殺戮に酔うほど野蛮ではなかった。
折角見逃してやろうと云うのだ、逃げてもらわなくては意味がない。
なおも動かぬ仔狐に向け、男は止めの一言を放つ。
「痩せた仔狐なぞ不味かろうが、それでも肉には違いなかろう――」
返り血に塗れた顔を拭わぬまま、凶悪に嗤(わら)う。
ひっ、と息を呑む音が聞こえたような気がした。
女子(おなご)の如く高い声の悲鳴が、男の耳朶を打つ。
ようやく、仔狐はこの場から逃げることに思い至ったようだった。
淡い蒲公英色の仔狐は、その色合いに似た金の髪を持つ少年の姿へと変化し、一目散に走り去っていく。
少年の姿が完全に見えなくなってから、男は再び岩へと腰を下ろした。
「まったく、次から次へとくだらぬ事ばかり起こるものよ――」
不機嫌そうに毒づく男には、この時知る由もなかったが――。
この時、男が蒲公英色の仔狐に放った恫喝が、遠い先の世で、男と瓜二つの容姿を受け継いだ彼の末裔に、僅かばかりの禍根を残したのだった。
〔了〕