〔承前〕
旅行の楽しみといえば、温泉と、もう一つ。
そう、夕食の時間である。
「いいにおいなんだよぅー」
大広間の襖をくぐった桜羅が、可愛らしい鼻を動かして言う。
広間の中央には人数分の膳と座布団が並び、やや隅の方にある卓に、白木のお櫃と、漆塗りの大きな重箱が幾つも置かれている。美味しそうな匂いの元は、そこだろう。
「配膳は自分達でやるのよね?」
「そういう話でしたね。その方が気兼ねいりませんし」
はたるの言葉に、勾音が頷く。
離れとはいえ、本来であれば宿の人間が配膳その他の世話をしてくれる筈なのだが。この人数で貸切にしてもらっているため、今回は出来る限り自分達で面倒を見る、という形にしてある。
「俺も手伝う! モルモもちゃんと手伝ってね?」
「きゅぴっ」
元気よく手を上げたユエの隣で、モルモもぴしっと挙手。
宿の人間の出入りを最低源にした理由の一つに、モルモが心置きなく過ごせるようにという思惑もある。それをきちんと分かっている一人と一匹は、お手伝いする気満々。
「そんじゃ、飲むもんの類とか運んできますわ」
配膳の人数は足りていると判断した彩晴、そつなく力仕事に立候補。
呼吸をするように自然に気を配る、生粋のフォロー体質である。
「……あ、じゃあ俺も。瓶とか重いだろうし」
その声を聞き、浴衣の裾からのぞく左足首の傷痕を気にしていたいちるも、従弟に続いた。
皆がきびきび動く中、こんな例外も。
「――皆の者、大儀である。よきにはからえ」
一人、バカ殿よろしく座布団に鎮座する影郎。
すぐさま、青筋を浮かべた寅靖に「貴様も働け」と首根っこを引っ掴まれたのは言うまでもない。
「よし、早く済ませて皆でご飯にしようぜ!」
円の楽しげな声が、広間に響いた。
「おいしー!」
「もきゅ!」
つやつやの白いご飯。どれから食べようか悩んでしまう、たくさんの料理。
それらを一口ずつ頬張って、幸せそうな声を上げるユエとモルモ。
昼間、野良モーラットの捕獲大作戦で動きまくったために、余計に美味しく感じるのだろう。
「――あれ先輩、油もん駄目なんですか?」
ふと、隣に座る影郎に視線をやり、彩晴が口を開いた。
手元を見れば、天ぷらの衣だけきれいに剥がされている。
「体作りには高蛋白・低脂質が基本なんですよ」
「そうかそうか、遠慮せずにもっと食え!」
影郎が答えるが早いが、彼の皿にどさどさと詰まれる天ぷらの山。
これが女湯覗き主犯に対する罰ですか、そうですか。
その一部始終を眺めていたいちるは、息の合いすぎた女性陣のコンビネーションに改めて恐れ慄いたという。
「寅ちゃ、元気ないんだよぅー。大丈夫?」
終始浮かない表情の寅靖を心配したのか、桜羅が彼に声をかける。
「好きなものあげるんだよぅー」と、自分のお皿を差し出す桜羅の頭を撫で、「いいよ、それは桜羅がお食べ」と寅靖が言う。
そんな微笑ましい図を見て、円がものすごくイイ笑顔で一言。
「……女湯になんか来るから」
ぐさり、と刺さる言葉の矢。
誰も寅靖が本気で女湯を覗きに来たなどとは思っていないが、ここまで分かりやすく落ち込まれると、かえってからかいたくなるのが人情であろう。
すっかり石と化した寅靖をよそに、勾音が隅の飲み物――特に酒類――を物色する。
「おや、結構いい銘柄が揃ってますね」
「お酒……飲んでもいいのか!」
勾音の言葉に、俄然盛り上がったのは円だ。
彼女らは既に成人しているが、能力者として活動を続けている都合上、イグニッションカードの使用に影響が出るかもしれない、という理由で日常的な飲酒・喫煙は禁じられている。
とはいえ、成人式の二次会で酒が振る舞われたこともあるので、一日や二日でイグニッションカードが使えなくなる、ということも無さそうであるが。
「たまに飲むくらいなら問題ないと思いますよ」
「じゃあ飲む!」
滅多にない機会を逃すまいと、即答する円。
勾音と互いに酌をして乾杯、そして――。
「あはははは、ユエはかわいいなぁ!」
あっという間に、ハイテンションお姉さん誕生。
しかも抱きつき魔。ユエ、桜羅、はたると、年少組の女の子にもれなくハグ。
綺麗なお姉さんのハグに、女の子達も盛り上がってキャッキャとはしゃぐ。
ただし、男性陣には(約一名の例外を除き)ハグしに行かないあたり、割と理性は残っているようであるが。
「いちるー、大きくなったなー!」
あの、円さん。純情な少年がちょっと困ってますよ。
はたるさんも、傍観してないで弟くんを助けてあげてください。
「――寅靖サンもどうです?」
吹き荒れるハグの嵐をよそに、顔色ひとつ変えずに杯を傾けていた勾音が、寅靖に向けてお銚子を差し出す。
「いや、俺は……」
軽く手を上げて辞退した寅靖だが、彼のコップが空になっているのを勾音は見逃さなかった。
寅靖が余所見をした隙に、勾音は素早くコップに日本酒を注ぐ。
平常時なら匂いでわかりそうなものだが、覗き騒動ですっかりテンパっていた彼は、見た目だけは水と変わらないそれにまったく気付くことなく。
結果、ぐいと一息に飲み干した。
……その数分後。
「寅ちゃー、寝ちゃったのー?」
寅靖、見事に撃沈。
桜羅が小さい手で揺さぶっても、まるで反応なし。
下戸にも程がありませんか貴方。
「……本当に大丈夫なのかな」
モルモさんを身代りに、ハグ魔・円からからがら逃れてきたいちるが、壁にもたれたまま動かない寅靖を見て思わず呟く。
「イグニッションへの影響とかなら、心配は要らないとは思うけれど……」
「そこに転がってる先輩は、布団に放り込む役が必要かもしれんけどな」
三者三様に酒の入った成人組を眺め、小声で言葉を交し合う双子と従弟。
そこに、天ぷらがうず高く積まれた皿を手にした影郎がずりずりと近付いて囁いた。
「あの、誰か天ぷら食べません?」
「……」
――こうして、宴の夜は更けていく。
〔続く〕