【※背後より】
『寅靖の祖先が土蜘蛛である』という仮想設定のもとで
忘却期以前の渕埼家の始祖を書いた連作SSです。
(事実とは限りませんし、表でこの設定を用いる事もありません)
これでもかという程に自己満足全開です、予めご了承下さい。
〔承前〕
それから、隠青は桜子の元へ通うようになった。
桜子も、隠青の来訪を拒もうとしなかった。
隠青は桜子に、己の退屈の渇きを満たすものを求め。
桜子は隠青に、己の孤独を癒すものを求めた。
片や土蜘蛛。片や人間。
種は違えど、群れから外れた者には違いはなく。
互いに、相手が何者であるかは、どうでも良かったのだ。
――そして、緩やかに時は流れる。
危惧していた事態が、とうとう現実になろうとしている。
どうしたものか、と隠青は腕を組みながら眉を顰めた。
桜子の家から、程なく近い場所に位置する澱んだ淵。
その底から漂う怨念は、日ごとに瘴気を増していた。
元より身投げが多い場所であることは桜子に訊かずとも察しがつく。
自らの命を絶った死者たちの怨念が、この世に降り注ぐ神秘の銀によって変質し、生者に仇なす死霊となりつつあるのだろう。
だから、このような場所に人が住むべきでは無かったのだ。
桜子のもとへ通う傍らで、隠青は何度かそれとなく居を移すように勧めたのだが、桜子は頑として首を縦に振ろうとしなかった。
物好きにも、程があろうというものだ。
――俺とともに来い。
何度も口にしかけては、未だ言えずにいる言葉。
呆気なく承諾するか、あるいはやんわりと拒絶するか。
二つに一つの可能性は隠青の中で揺れ動き、一向に決着がつかぬ。
己が何に対して恐れているのかは、考えぬようにしていた。
たかが人間の女に、土蜘蛛たるこの俺が心を奪われたなど。
ありえぬ。決してありえぬことだ。
女のもとに通うのも全ては戯れ、退屈凌ぎに過ぎぬ。そうだろう。
自らの心に楔を打ち、隠青は再び淵の底を見やる。
怨念が死霊として完全に形をなすのは、もう間もなくの事だろう。
中でも、かなり強力で性質の悪いものであることは、容易に想像はついた。
おそらくは、隠青の手にすら余るほどに。
隠青は勇猛な戦士であったし、己の力に対する自負もある。
だがしかし、負ける戦はしない主義だった。
敵わぬと知っての玉砕はただの犬死に、勇気と無謀は違うのだ。
簡単だ。このまま去ってしまえば良い。
桜子とはもう充分すぎるほど、時間をともにした。
あの女に対する興味も、そろそろ尽きるのではないか。
己は、このような安穏とした日々に甘んじる男ではないはずだ。
そうだ、このまま去ろう。
あの女が生きようと死のうと関係ない。
風の向くまま歩いてゆけば、いずれ思い出す事も無くなろう。
それだけだ――。
「お帰りなさいまし」
家の扉を開けた隠青を、桜子が穏やかな口調で出迎える。
いつ、いかなる時に通っても、この女はいつもそうだった。
「俺が来るのが当たり前のような口をきくな。何様のつもりでいる」
殊更に険しい表情を作り、低く声を放つ。
桜子が、ほんの僅か、首を傾げて隠青を見た。
その視線も、何もかも。
一切を拒むようにして、隠青は桜子に背を向ける。
「もう通わぬ。貴様には興味が失せた」
そのまま、扉を力任せに引いた。
「――行ってらっしゃいまし」
背中に向けられた声と、叩きつけるが如く扉を閉める音が重なる。
最後まで、何を考えているかわからん女だ。
言うに事欠いて、行ってらっしゃいまし、だと?
俺が再び戻るとでも、思っているのか。まったく、おめでたい奴め。
振り返らずに、隠青は歩み出す。
森を抜ける道ではなく、あの深く澱んだ淵へと向けて。
ああ、畜生。焼きが回ったものだ。
束縛を嫌い、群れすら捨てたこの俺が。
ただ一人の女のため、己が生き方を曲げるなどとは――!
いつの間にか、暗くたちこめた雲から雨の雫が一つ、また一つと地面を叩き始めていた。
両の手に黒い短刀を握り、切り立った岩を踏みしめて淵を覗く。
「――来るか、死霊どもめ」
異様な感覚とともに、視界が微かに歪む。
数瞬の後、隠青は戦場へと辿り着いた。
〔続く〕
【♪獨想(おもい)/姫神】 [YouTube]